第1回 明晃印刷様 第3章「家業の立て直し」

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第1回 明晃印刷様 髙崎健治社長

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第3章「家業の立て直し」

それで、僕は未だにアレですけど活版印刷ってすごくカッコ悪いと思ってたんです。なんでかわからないですけど。その時うちの名刺は活版で刷られていて、みんなの名刺はカラフルやったんです。デジタルで。だから僕はカラーの名刺をみて僕の親父の名刺をみたら、活字でカッカッカッカッて書いてるだけの感じのやつで「恥ずかしいなぁ」とずっと思っていたんですよ。実際にやっている印刷の仕事も、封筒とか、名刺とか、伝票しかなかったのでなんかカッコ悪かったです。


ドイツ ハイデルベルク社製 プラテン活版印刷機

ドイツ_ハイデルベルク社製_プラテン活版印刷機

モトヤ→それはついこの間まで時代の最先端のことをされていたせいでしょうか。家業の活版印刷は昔からやっていることをずっと続けているだけなんですけどね。

「これなんかいややなぁ。単純にいややなぁ」と。もっとカラフルに、なんというか【印刷屋_さん】をやりたかったんです。
それでやったのが、大阪府庁への飛び込みです。そこへ行けば大きな仕事があると考えまして。そこで用度係の方に言われたのが「君は資格をもってるんか」ということでした。大阪府とか大阪市とかに飛び込みでいくんですが、資格がないから入札に入れないんです。その時は3次の入札だったんです。

そして資格をとりました。当時、明晃印刷という親父と母親と僕の3人の会社でしたが、名刺屋さん、封筒屋さんと言われるのがいややったんで大きな仕事を取りたかったんです。しかし、入札にはランクがあって一番下のDランクからでした。それだったら1万円から5万円ぐらいまでの仕事しかくれないんです。ランク別に仕事の受注額が金額階層になってたんです。だから大きな会社は100万単位200万単位の大きな仕事ですが、それは僕らと入札時刻が違っていました。僕が時間になり職員のところへいくと「Dやで」といわれました。

そして、会場にいくと、街中の名刺屋さんとかはんこ屋さんみたいな人がいっぱい集まって来てたんです。その入札の対象は市役所の人の名刺や判子など5万円以内のものばっかりやったんです。そして近くの職員のひとに「僕もあっちやりたいんです」と上のクラスをいうと「いや、あっちは実績がいる。社員数、年商とかいろいろな基準があるから無理や」といわれました。「うわぁ僕大きな仕事したかったなぁ」と思ったんですけどダメでした。

しかし、そのときヒントをもらったんです。僕の母校から「君、印刷やってんねんやったら、母校の学校案内刷ってくれへんか」といわれました。桜塚高校なんですけど。そして学校にいってみたら少額ですが仕事をもらえたんです。カラーの学校案内の仕事です。それで無茶苦茶うれしかったです。そして納品に行ったときに大きな冊子があったので「あれ、これなんですか」と聞いてみると「あぁこれは、うちの学校が60周年なので、こういう大きな本と目録とかいろいろ作るねん」といわれたんです。

モトヤ→それはABCDランクでいうとどこに当てはまる仕事なんですか。

500万単位の仕事ですので真ん中よりは上だと思います。「えぇっこれって僕できますぅ?」といったら「あぁこれ、まぁいけるんちゃうか。母校やし。すでに何社か来てるけど入ってみいや」といわれました。この仕事は同窓会と学校関係者で決めることができるので行政は絡んでなかったんです。そしてこの仕事を取ることができました。金額で6~700万円位でした。大変なのはそれからでした。家でそのことを報告すると親父が「えぇっお前こんな仕事できるとおもってんの」といわれました。

名刺とか封筒とかやってんのに、僕は「もう仕事、取ったから」といいました。とはいえ一人ではレイアウトなどデザイン的なことは何もわからないので、デザイン会社をやってた先輩に助けを乞うと「わかった、ほな一緒にやろか」ということになりました。やっているうちにだんだんと面白くなり、図書館に行って調べたらほとんどの学校が周年史をつくることがわかりました。それであと何年で周年史をつくるというのを調べ上げ、全部、営業に行きました。また、マニュアル本を作ったんです。A5版ぐらいで記念誌の作り方みたいなものです。自分でつくって先生に無料で配りました。

印刷の八丁づけとか四丁づけとか、製本のこととかの本を作って農業高校とか1年で6校ぐらい契約がとれました。金額で4,000万か5,000万円ぐらいでしたね。そしたら親父は「お前大変なことしてくれたな。こんなに仕事もらってきてどないすんねん。できるんか、責任問題やで」といわれました。1年で6校位をやるので資料を入れたの段ボール箱も大量にあるなかで、先輩にも無理をお願いしながら自分でもレイアウトの勉強をしてやり遂げました。ライバル会社も「明晃印刷ってどんな会社やっ」てなって、その頃、明晃印刷は記念誌では有名になってました。これは5年くらいやりました。


製作の様子

印刷をしている時の髙崎社長

次回に続く

 

 



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