第1回 明晃印刷様 第4章「東京」

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第1回 明晃印刷様 髙崎健治社長

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第4章「東京」

記念誌をやっている時に知り合った人が大阪でメロンパンの移動販売をやりだしたんです。まだメロンパンが世にでだした時です。「ライトバンに窯を積んで走って焼いて売るらしい。なんか結構儲かってるみたいやで」ということでした。大阪ではそのメロンパンの車はたくさん走ってたんですけど、東京にはまだなかったんです。

また、当時大阪はハイエースでそれもボコボコの車でやってはったから「東京はちょっとおしゃれにせえなあかんなあ」と考えました。軽トラの荷台にきちんとしたお店があり走っているような感じにしてやろうと。そして、第1号店は吉祥寺に出しました。

クアトロおじさんの焼きたてメロンパン

クアトロおじさんの焼きたてメロンパン

モトヤ→吉祥寺というのはどんな街なんですか。

おしゃれな街です。マルイのとこに置かせていただきました。当時、私は34か35才位でした。20代くらいの子3人をつれていって、4人でクワトロ・フォーガという会社を作りました。吉祥寺のお店をオープンした時はマルイのお姉さんがたくさん集まってきました。かわいい車やとか一緒に連れて行った子らが吉本ばりによくしゃべる面白い子だったのでパンが焼けるまでに漫才をするんです。

するとそれを聞いてたくさんの人が集まってきます。10時に入って2時ごろで全部売り切れました。1日で15万円位を売り上げるんですよ。それが毎日つづきました。パンのネタは神戸屋さんから仕入れてました。そういった日々が続いてたんですけど、やっぱり1台だけやったらたかが知れてました。

人海戦術では物理的な限界でした。そうしたら若い子らが「フランチャイズやろうや」といいだして「私たちが売るのではなくて、東京で商売を始めたい人に売ってもらったらいいんじゃない」というノリでした。「それはおもろいなっ」てことでやることになりました。

リクルートのアントレっていう雑誌の取材を受けたとき特集を組んでもらいました。ページ見開きで掲載されました。また、ちょうどその時、アントレフェアが東京ドームでありました。それでそこに1号店を持っていきました。「吉祥寺でいつも販売してますっ」ていうとものすごく好評で、やってみようかなっていう人もいました。

キッチンカー

キッチンカー

クワトロおじさんの開業資金は550万円でした。募集には80人以上が並びました。なぜかというと当時フランチャイズはコンビニが3,000万円4,000万円レベルでしたが、僕のところは550万円なので、これならできそうだなという人が多かったんです。それで84人並んで17人は現金で用意できる人でしたが、あとの人はローンを利用するつもりでした。ローン会社は全てうちが対応しますといってくれたのですが、結局は自分のキャッシュを持っている人だけにしました。しかしそれより問題だったのは販売場所のことを僕が全然考えてなかったことだったんです。

その間にも車はどんどん出来てきます。フランチャイズ1号車は元証券会社の人でした。仕方がないので路上でパンを焼く練習をしてもらってました。2号車の人も、3号車の人もです。そうこうしているうちにフランチャイズの人達がイトーヨーカ堂で売りたいという意見になりました。本社であるセブンアンドアイホールディングスのある四谷に僕は飛び込みでいきました。当然あってもらえませんでしたが、何度も行っているうちに催事にかかわっている人に拾われました。

そしてとりあえず1台浦安のイトーヨーカ堂で販売させていただけることになりました。テレビで様子が流れたこともあり、そこでも結構人気がでました。それで後16台もイトーヨーカ堂の店舗で販売できるようになりました。それにより1日10万個ほどメロンパンが売れだして、神戸屋さんもパンを焼くレーンを貸してくれたりしました。その時はほっておいても潤沢にお金が入る状態となりました。それで僕はお金を遊びに使いだしました。

本来はフランチャイズの本部としたら東京、神奈川、埼玉、千葉のなどの店舗を順番にまわって、オーナーさんと対話しながら運営していくのが仕事なのです。しかし、僕はそれがだんだん面倒になってきて、まわらずに携帯電話で状況を聞いて済ませてしまうようになってきました。それよりも意識は毎日遊ぶことにシフトしていきました。メロンパン販売もいろんなライバル企業が出てきたのですが、僕は別に競争しようと思いませんでした。向こうは資金力も開発力もあるのでうちでは太刀打ちできないと思っていました。

やはり、そこがピークでした。徐々にこれは売れると世間に知れわたりだすとよく似たものがどんどん登場してきました。値段のたたき合いというより、場所の取りあいでした。「ちょっとこちらの店を休んで」と言われたと思ったら、チョコチップのお店が出ていたりしました。そうしてメロンパン販売も休むオーナーさんが出てきてだんだん淘汰が進みました。

そして3年半くらいたったころ37、8才ぐらいでしたけどやめました。その一方、個人としては毎日夜中飲んで歩いてうちに帰って来た時「もし僕にお金が無くなってしまったら、なんにも残らへんのちゃうか」とすごく恐怖感を覚えました。それなら何かこの世に自分の名前を残したいという欲がでてきました。それで「地球島ニュース」という、日本全国の子供のニュースサイトをつくりました。

地球島ニュース

地球島ニュースサイト

それは、毎日いろんな学校が自分のところのホームページを更新するたびにうちのサイトにも同じ記事をあげてもらい、記事をいただくたびに5ポイント進呈します。そして、最終的にそのポイント数に応じた金額をワクチンの募金にできるようにするというシステムです。その際に送ってくれる画像を僕が厳選してアルバムをつくり全国の小学校にプレゼントするということをしました。これも自分ひとりではできませんので富士フイルムさんに協力してもらいました。いつものように最初飛び込みでいったのですが相手にされませんでした。

モトヤ→その時お会いになったのはどんなかただったのですか。

東京の富士フイルムのインターネット等に特化した部署でタカハシさんという担当の方でした。最初は「無料でそんなことはできない」と。でも僕は食い下がって「子供たちがこのことを機会に富士フイルムという名前を憶えてくれたら将来的にたくさんのお客さんになってくれますよ」言いつづけました。そうしたらある学校が富士フイルムにお礼状を送ってくれたんです。またそれが富士フイルムの担当者の上司に知られる機会があり、いい取り組みなので期間限定でやってみようということになりました。そのころ僕は東京と大阪を行ったり来たりの生活で大阪では親父の活版印刷所を手伝っていました。

印刷所開放デー

印刷所開放デー

次回に続く

 

 



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